2016-01-27

ジャカルタで起きた爆発が 元「頑張らない屋さん」の僕に火をつけた話でも聞く?

Leoです。


2016年1月14日、ジャカルタで爆発が起きました。

僕はそのとき、どこにいたんだっけな。どこかにいました、ヨーロッパの。


すぐに僕は友達を心配して、メッセージを幾人かに送ったり、Facebookで安否を確認したり、していました。復興作業は早く、事件の12時間後にはもう、(物理的には)ほぼ元の状態まで復興していたとのこと。すげぇ。

だから、これからジャカルタとバンドンに行く自分は、もちろん最大限の危機管理はするものの、別に行かないことにするだとか、行くのを遅くするだとか、そんな選択肢は別に、持っていませんでした。


けど、両親や祖母は違いました。はじめ、両親はそろって僕のジャカルタ行きには反対し、祖母も心配のメッセージをくれました。テキトーな我が息子/孫が、危険な場所にいまからひょろっと行こうとしているのですから、止めるのも無理はないでしょう。

僕も、もちろん自分の命を失いたくないし、「命が保障できないことをあえてする」ことは、留学全体のルールとして、しないことに決めていました。けど、安全が確認されたのに行かないというのは、どうも、したくなかった。



それを、親に伝えようとしました。

しかし、言えませんでした。



親は、僕をとても心配していました。本気で止めようとしていたのか、きちんと安全であることをわからせてほしかったのか、真意は僕は知りません。

しかし、僕がインドネシアに行きたい!そこでこれこれをしたい!しなくちゃいかんのだ!!という熱意は、その心配を超える気持ちだとは言いがたかったと、気づいてしまったのです。

つまるところ、僕は今からする勉強や調査に、それほどアツくなれていないのではないかと、思い始めてしまったのでした。


(結局、親には、バンドンがいかに安全であり、僕が常に住所を知らせ続けるということで合意に至り、現在もバンドンでの生活を続けています)





そこから、いろんなことに思考を膨らませる中、北欧の生活も一緒に思い出していました。スウェーデンにいたころ、この記事にも書いたように、僕は彼・彼女らの「自分主義」と勝手に名付けた生きざまに惚れました。日本では得難い、素敵で、自分に合った生き方だと直感でかんじたからです。というか、考えれば考えるほど、僕はこういう人間でありたいと強く思うようになっている。


しかし、少し勘違いをしていました。


僕は、頑張るのは基本的に嫌いな人です。別に数年間にわたって運動部に入っていたわけでもないし、つらいことをやり続けた経験はありますが、それは「密度が濃く、いろんなことを学んだ。でも、もうこんなことしたくねぇ…」というネガティブな思考回路に昇華したものです。

そして僕は「どうして将来、数学や生物を使わないのに、勉強しなくてはいけないの?」という問いに対する、「使わないこともきちんと勉強できる人は、すごい人なんだよ」という理屈の通った風に返答する大人が嫌いです。意味のない辛さに意味はないと、信じてやみません、いまだに。


しかし過度に、目の前のつらさから逃げてきた自分の存在も、否定できなくなりました。なりたい自分の像はあっても、それに対するアプローチが自分にとってつらいものであったなら、僕はそれさえ避けてきました。つまり、たいていの場合は、いつかはつらい道を通って、失敗しながら泥臭い勉強や経験を重ねなければならないはずなのに、一番つらくない道を探し続けてきたのです。その結果、たいして勉強をしてこなかった薄っぺらい東工大生に、なってしまいました。





たとえばつらい勉強というのは、少なくとも二つのスケールで抽象的なエリア分けができそうです。

Y軸は、精神的負担の量。モチベーションの有無にかかわらず、その勉強がどれだけ今の状況(スキルやほかのタスクなど)の自分にとって時間と手間を要するのか、というスケール。

X軸は、その勉強の有意義さ。意味があって勉強しているのか?誰かに言われてただやっている勉強に、果たして演繹的な価値はあるのか?自分で意義をどれだけ理解していて、その先のイメージがどれだけ沸いているか。

(Z軸に「好奇心の量」という別のスケールもあるはずです。が、好奇心によって動いてくれない自分が、どうしたら頑張ってくれるかを考えていたので、無視しました)



だから要は、頑張らなくてはいけないときは頑張らなくてはいけないし、やってる意味が分からないなら即座にやめるが吉(やめられるかどうかじゃなくて、やめたほうが善が大きいことは多い)なのだということに気付いた、ということにすぎません。まとめると、なんてあたりまえな。




ブルックリンのおばちゃんの話も書きました。でも、ある程度のレベルになりたいのなら、つらいフェーズやコンペティションのフェーズは、とても役に立ちます。



危機感がないというのも、少しあるかもしれません(日本語がおかしい

内的なものばかりに目が行って、例えば「途上国の現状を肉眼で見て、本気でやらなきゃ!すぐにでも解決しなくちゃ!って思いました。」とか、「あの人の生きざまがかっこよくて、そのためにつらいことも頑張ろうと思いました。」とか、そういう外的な要素もあっていいと思います。環境に左右されやすい僕は、外からの刺激に敏感だから、きっといい方向に転がるんじゃないかな、と、ふと。


なんか考えの質があまり良くないけど、とりあえず吐き出してみました。
甘ちゃんだからな~。いろいろ、頑張ろうっと。アツくなろうっと。

勢いに任せて、急にアクティブになっている時期なうです。いきなり連絡来ても、あたたかい返信、よろしくですよ( *´艸`)



急に終わり。


Leo


過去の記事はこちらから!

2016-01-16

【想い出と宣言】ボロボロ泣くくせに切り替え早いから周りの人は振り回されるのね

Leoです。

2016年も相変わらず、ドタバタと騒がしく生きていくことになりそうですが、温かく見守ったり、手を差し伸べてくださったり、していただけること、楽しみにしています(他力本願


さて、私は今、飛行機の中でこの記事を書いています。
先日記事にしたように、北欧での生活は無事(?)終わってしまいました。


僕はさよならを言う際、人や環境にはそれほどさみしさを感じない人なのですが、その時、その場でしか味わえない雰囲気に、泣くほど固執してさみしさを感じてしまいます。生きていればまたきっと会えるだろうし、Facebookでつながっているから連絡も取れるし、とはわかってるのですが、この人たちと、この場で、こんな風に馬鹿笑いをすることはもうできないんだな、と思ってしまうからです。もはや今書きながらちょっと泣いてます。強がって表に出さないけど、涙もろいんです、実は。


大学に入ってから、こうやって「別れ」というもので涙を流したのは、覚えている限りでは三回目かと思います。


**********

一回目は、東工大で開催された短期留学プログラム5th ASCENTの、Farewell Partyです。

当時僕は学部一年生で、経験も英語力もほぼ全くないのに運営サイドで、しかもプロジェクトリーダーを司っていました。それだけでさえ手一杯なのに、わがままな僕は並行してその主催団体の代表も取り持っていました。もちろんメンバーは先輩ばっかり。はじめはミーティングさえうまく回せず、もはや先輩方の操り人形のよう。とてもつらかったです。今まで一度だけ、本気で辞めてやろうかと思ったこともありました。そうして一年かけて作り上げた5th ASCENTは、今となれば笑い話や懐かしい話ですが、いくつもの課題を残して終了しました。当時、僕から見れば、手放しで「大成功でした!!」とは言えない結果でした。

ただ、最初はどぎまぎして打ち解けてくれるか不安だった東南アジアからの参加者みんなが、Farewell Partyでごちゃまぜになって笑いあっているのを見たとき、つらかったけどやっと終わったという安堵と、もう終わってしまうんだ、このメンバー全員で、こうやって笑いあうことはもうないんだなぁ…と思い始めてから、目の前の無邪気な光景に涙をこらえるのに必死でした。最後には、代表としてバシッと決めなきゃいけない締めの挨拶で、あたり構わずボロ泣きしてしまったり。いい思い出です。誰かがビデオを撮っていたような気もしますが、若かったという言葉が全部打ち消してくれることでしょう。


2回目のそれも、似たようなものと言えばそうでした。今度は僕が二年生の夏に参加した短期留学プログラムAYSEAS 2014”です。

こちらは、参加者として。開催地はベトナムのハノイで、僕の生まれて初めての海外経験となりました。ここでも懲りずに先輩に囲まれながらリーダーを務め、小さな挫折を重ねながらも手を伸ばし続け、周りの優秀な人たちから何かを盗み取ってやろう、だとか、一番後輩だけど先輩たちをどうにか出し抜いてやろう、だとか、無駄にゴリゴリ闘志を燃やして、臨んでいました。

結局、最後まで出し抜くどころか、彼・彼女らの気づかぬところで勝手に、僕は諭され、どうして嫉妬によく似た負の感情が出てきたのか、そして実はそれにすこぶる嫌気が差していた自分と向き合うきっかけにもなりました。大切な友人たちにも出会え、別れの際には涙をこらえることができませんでした。とってもいい思い出です。


**********

さぁ、なんでこんな話をしたのでしょうか。別に、飛行機でビールを飲みすぎて、酔った勢いで独り暴露会をしているわけではありません。いや、「飲みすぎて」までは本当なのですが。

今乗っている飛行機の行き先が、こんな昔話をわざわざつづった理由です。僕は今から、インドネシアとベトナムを訪れます。

大学一年生のころに想い焦がれて切なく散ったインドネシア人がきっかけで、少しでもお近づきになってやろうと、現地の文化からイスラム入教の手続きまで、勉強するようになりました(イスラム教徒と結婚できるのはイスラム教徒のみなので、浄土真宗の僕は焦りました)。100以上の言語が混在し、数万の島々で成り立つ、爆発的な勢いを持った南国の親日新興国、インドネシア。僕にとって、この国は第二の祖国です(行ったことない)。

また、初めて海外に出た(しかも旅行じゃなくて、学びを目的として)時のワクワク、初々しい緊張感、驚きや発見、当時のいろんな障害への精神的負担、何もかもの振り返りをしなければ日本には帰れないと思い、ベトナムも訪れようと決めました。


ここに挙げたような背景を元に、ちょっと集中的にブログ更新の頻度を引き上げようとたくらんでおります。バンドンについて少し落ち着いたら、短期間だけ1日1記事に挑戦してみます。暇人かよ。はい、暇(を作るのがうまい)人です。嘘です。

僕の研究や、トビタテ!で出させていただいている留学テーマに深く結び付くアクションを深く考えた末、こういうところに落ち着きました。詳しくは、いろんな報告会や飲み会で、たっぷりお話したいので、是非にお誘いお待ちしております。

特に宣言なしにやり始めようかと思ってましたが、周りにどや!ってしとかないと、自分に甘えそうなので、宣言をここに。


例によって、この超短期連載も「自分のためのメモ」という意味合いが強くなると思います。もしネット環境と少しの興味と暇な時間があれば、ぜひ覗いてみてください。


という、昔語りとちっぽけな宣言でした。終わり。



Leo


過去の記事はこちらから